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第4回

27番札所〜35番札所

二十七番札所 東林寺 (伊東市馬場)

もろ共に仏の誓いたのめただ真如の月ののぼる林に
山号 稲荷山
曹洞宗・(長源寺派)
草創 1145-50(久安年中)

開創当時は真言宗。天文七年 (1538)十一番札所である、長源寺三世、圓芝春徳によって、曹洞宗に改宗。伊東七福神 福寿財宝の神布袋尊を祀る。1100年代の昔、工藤祐経のうらみを受け不慮の死をとげた河津三郎祐泰(曽我兄弟の父)の菩提をとむらって、父伊東祐親が建てた寺。鐘楼堂の上の高台には日本三大仇討ちの一つ、曽我兄弟の首塚と、父祐泰の墓がある。

「河津掛け」は、河津出身の力持ち河津三郎祐泰が、俣野五郎景久を破った技が発生元といわれており、相撲四十八手の一つ「河津掛け」は河津三郎祐泰がをあみだしたとされる。境内に祐泰を顕彰した碑が建つ。

またその仇討ちの元となった相撲が縁で、昭和三十四年日本相撲協会の碑が建てられ、当時の時津風親方を始め、横綱双葉山、栃錦や若の花一行がの土俵入りが行われ伊東祐親公の霊を弔った。
河津三郎祐泰
相撲四十八手の一つ「河津掛け」考案者
河津町役場のサイトより引用

二十八番札所 大江院 (伊東市八幡野)

はるばるとたづねるここに八幡野の法も大江の遍照の月
山号 伊雄山
曹洞宗(最勝院・末)
草創 不明

草創当時は密教(真言宗)で俗称・大江庵といわれ、天文九年 (1540)最勝院十二世・宗銀により曹洞宗に改宗、伊雄山・大江院となる。その後衰微。元和年間 (1615-24)僧・秀天により再興される。昭和40年代に、「豆国(伊豆)八十八ヶ所霊場納経帳(朱印帳)」がこの寺で発見され、保管。これに明治二十二年の銘があり、豆国遍路が百二十年以前から行われていた事実が判明。

豆国八十八ヶ所霊場納経帳
百二十年前の伊豆遍路となれば、歩きでの巡礼となる。非常に険しい道のりであったと想像できる。特に西伊豆の70番札所~88番札所までの道のりや熱海越え等は相当な覚悟がなければ、結願出来ない。白装束をまとっての巡礼姿が目に浮かぶ。この納経帳での巡礼は、伊豆霊場二十八番札所「大江院」から始まり、二十七番札所「東林寺」で結願。納経帳の記録でおおむね1ヶ月半での巡礼となっている。

二十九番札所 龍豊院 (東伊豆町大川)

かけ登る龍華山会のあかつきはゆたかに照らす大川の月
山号 大川山
曹洞宗・(最勝院・末)
草創 1555(弘治元年)

足利時代の末期、創建で当時は真言宗。慶長年間 (1596-1615)最勝院、七世僧笑山により曹洞宗に改宗。

寺の門頭に樹齢400年と推定される枝垂れ桜の古木があり、創立当事に植えられたとされる。樹齢もさることながら、木の形や枝張りがとくに見事で、単花弁の純粋種という珍しい品種。毎年3月下旬になると糸のような枝に薄桃色の花を咲かせ、参拝客を楽しませる。昭和五十四年、東伊豆町文化財に指定される。

履き整えられた境内は整然とした美しさを感じさせる。本堂の堂宮彫刻は龍と狛犬、立体的な細工が目を惹く。本堂裏の山水の庭園は見事で池には立派な錦鯉が泳ぐ。
龍豊院のある大川は、海、山、温泉と豊かな四季を感じる村。
スローライフな時が流れる、「時忘れの里」

三十番札所 金沢山 自性院 (東伊豆町) 

瑠璃光の み仏のおわす 自性院 いのる心に みつるしあはせ
山号 金沢山
曹洞宗・(最勝院・末)
草創・ 1504(永正元年)

熱川温泉の山側にあり、3番札所最勝院の末寺で創立は室町時代。

1579(天正七年)大田道灌の末孫大田持広が、最勝院十一世、仙山長寿を招き曹洞宗に改宗した。

三十一番札所 来宮山 東泉院(東伊豆町)

みずからの 心をうつす 東泉に 深き誓いの かげもみえけり
山号 東宮山
曹洞宗・(最勝院・末)
草創・1494(明応三年)
本尊は役ノ小角(えんのおずね)作

北條家の家臣の金指筑後守が「武運長久・家内安全」を願い、観音像を安置したのが始まり。明応三年の創建と伝えられる元真言宗の古刹。後に最勝院、七世笑山精真和尚により曹洞宗に改修する。本尊を造ったと言われる、「役ノ小角(えんのおずね)」とは通称「役の行者(えんのぎょうじゃ)」は実在の人物で飛鳥時代から奈良時代の呪術者。修験道の初祖。

三十二番札所 稲取山 善應院(東伊豆町)

来てみれば 葦原遠く 波の華 弘誓の舟に 乗る心地して
山号 稲取山
曹洞宗・(永明寺・末)
草創・ 1441(嘉吉元年)

境内の垂れさざんかが美しく咲く。集落の外から入り込もうとする邪気や邪霊を遮るための双体仏地蔵尊があります。室町時代、鈴木三位大臣の子孫、鈴木孫七郎繁時により創立された。稲昌山と言い真言宗だったが後に曹洞宗に改宗し、山号も稲取山・善應院と改め今日に至る。

鎌倉幕府が開くと、東伊豆と鎌倉の往来も盛んになり陸上交通、海上交通が発展した。江戸時代になると海運の進歩により稲取港も大いに繁栄した。
稲取は昭和20年米軍の空襲で、壊滅状態になる。善應院も被害を受けたが、直撃は受けず、本堂は大修理するに留まった。

三十三番札所 見海山 正定寺(東伊豆町)

本願の 誓いはいつも 変わらじと まこと定むる 法の道すじ
山号 見海山
浄土宗・(増上寺(東京・芝)末)
草創・1181-82(養和年間)

安徳天皇の時代、創立当初は真言宗で、来迎庵といった、1428-87(正長・文明年間)臨済宗、建長寺派に属す。後に土宗に属し正定寺と称して今日に至る。本堂前には露座の阿弥陀如来像、境内には薬師如来石仏、三十三観音像がある。阿弥陀如来像は鎌倉の大仏をイメージして造られたものという。まるで港に戻る船の目印、灯台にも思える。

昭和20年、米軍B29爆撃機の空襲により、本堂倒壊の大災害を受けている。また海を背にして建っているため、寛文10年(1670)に台風による波浪で、歴代住職と檀家の墓石を残し、全て流失する大難も受けた。本堂天井に書家が2年かけて書いたという「寿」の百体文字。1文字、1文字微妙に違う。

三十四番札所 干午山 三養院(河津町)

めぐり会う み法の聲と もろともに ここに千手の 誓いをぞ増す
山号 千手山
曹洞宗(昌渓院・末)
草創・1501-21(文亀・永正年間)

韮山の昌渓院を開山した、竺仙宗僧が創立した。文亀年間(1501-04)か永正年間(1504-21)の間と推測される。もともと千手庵と言った。創立当時は別の場所であったが、後年現在地に移された。 天正十八年(1590)下田城が豊臣秀吉の、1万4千余の水軍に攻撃された、城主の清水上野介康英は妻と子の三人で逃れ、この千手庵に身を隠した、三人を養った故に、三養院と寺号を改めたと云われる。

寺宝である寺籠や、清水家の墓、水戸黄門(徳川光圀)の師であった東杲心越禅師が書いたという扁額など、見どころが多い。

三十五番札所 栖足寺(河津町谷津)

雲井より下る比翼のすまいたる鳳儀の山に晴るる朝霧
山号 凰儀山
臨済宗(鎌倉、建長寺・末)
草創・1319(元応元年)

後醍醐天皇の時代、下総・佐倉の城主、千葉勝政の三子、僧・徳瓊覚照が創建伝わる禅寺。正平十八年 (1363)足利氏の兵乱により全て焼失。その後再建したが、安政元年 (1854)再び焼失した。現在の本堂は明治十九年 (1886)再建のもの。

寺宝に河童のかめと呼ばれる壺があり、かつて栖足寺の住職に助けられたカッパが、お礼に置いていったとの伝説が残っている。古瀬戸風の黒褐色をした高さ36cmほどの焼物で、底に、「祖母懐加藤?右門」の記銘がある。江戸時代の中頃の作といわれ、柔らかい肩の張りや色合いが特徴。壺口に耳を当てるとせせらぎの音が聞こえるという。

寺の境内には河童の記念碑があり、昔話が記されている。
家紋を彩った本堂の天井画は、古く歴史を感じる。